らんだむな記憶

blogというものを体験してみようか!的なー

修士に行くと何がよいのか

下の不定積分のネタ元に興味深い哲学が書いてある。なんて興味深いのことか。考えたことがない。

「え?学部の 4 年間でそんなに何かつかめた?ゼミ受けて本読んだりレポート書いただけじゃない?」くらいにしか感じなくて、お金や気力等々に余裕があるなら幾らでもその後追求したら良いと思うし、そのためにその大学の学部の学科に行ったのではないのか?と思ってしまうのである。つまり考えたことがない。行けるところまで行けばいい。登れるところまで登れば良い。それくらいしか考えたことがない。

そうか、だがこういう質問もあるのか。それはそうだ。「雨は何故甘いのか?」「雨は何故降るのか?」と併せて「何故修士に行くのか?」も考えても良かったかもしれない。まぁ、最初から答えが決まりきっていたので考える必要がなさすぎて考えることもなかった。

でもそれは「何故山を登るのか?何が良いのか?」「何故絵を描くのか?何が良いのか?」に対するものと同じような答えでも良さそうに感じてしまう。そこにハードルがあるからでもいいし、頂上から景色を見たいからでもいい。今しかやる機会がなさそうで、いまやれるからでも良さそうだ。何が良くて何が嬉しくて山に登ったり、絵を描いたりするのかはよく分からないが、それはきっと十人十色だ。正解もないし不正解もない。という感じで、きっと何か思うところがあるならそれが “良い” という部分だろうから、それが欲しければ行ったらいいんじゃない?と思ってしまった。

ま、p(良い就職ができる|修士に進んだ) などというなかなか主観的な条件付き確率に何かしら数値が出るとしても、サイコロの目を降って出た結果の値を目にした時にハズレだったらどうにもならないわけで、サイコロも振り直せるわけでもないし、あまりその観点で考えるのはちょっとつまらないな、と思う。サイコロはどうにもならんこともあるので、気に食わない目が出たら、そこでどうするかを考えるのが大事だと思うし、どうにでもできる底力を身につけておくことも大事なのだろう。