らんだむな記憶

blogというものを体験してみようか!的なー

何故それをするのか?

例えばよく山に登る場合に「何故山にのぼるのか?」という疑問がある。これを抽象化すると「何故〇〇するのか?」となる。この“〇〇する”には概ね任意の動詞を割り当てることができるであろうから「生きる」という動詞を割り当てると「何故生きるのか?」という哲学的な疑問へと至る。

「生き物 = 肉体 + 精神」という安易な分解が可能であるかは分からない。また、精神なるものがどのように定義されるべきものであるかも分からない。だがとりあえず曖昧にこのように分解してみる。
ここで「肉体」および「精神」における生と死を考えてみる。「生」は「死」の補集合として考えることとし、「生とは死ではないこと」程度に捉えてみる。

  • 肉体の死
    • 通常の肉体の状態を維持できなくなった状態
      • 深刻な破損などにより、血液が十分に循環せず、肉体を構成する各細胞が酸素を十分に得られなくなり至る不可逆な状態。
      • 毒などにより、各細胞に必要な物質を正常に合成できず、細胞が正常な動作ができなくなり至る不可逆な状態。
  • 精神の死
    • 通常の精神の状態を維持できなくなった状態
      • 刺激が十分に与えられず、精神を構成する何かしらが変化を十分に感じられなくなり変な状態に入り込み至る不可逆な状態。
      • 過度の刺激が瞬間的に与えられることで、何かしらが極端な状態に固定されてしまい通常の機能を失い至る不可逆な状態。

みたいなことが考えられるのではないだろうか。ここで排他的に網羅する条件は模索しない。
このように考えた時に、生き物は単純に肉体の死を避けるかつ精神の死を避ける行動をしているに過ぎないようにも思われる。

足元の不安定な高所にいる状況を想像しよう。恐怖感が想像されると思われる。足元が不安定なのでいつ落ちるか分からない。落ちれば肉体が激しく損傷し、肉体の死を迎えることが予想される。これを避けたい防衛反応の結果、恐怖が湧くのであろう。安全な建物の中では同じ高所でも恐怖は湧かない。
「仕事のあとのビールが美味しく、これのために生きている」という正の動機付けがあるとしても、このビールが得られなくなったという理由で死ぬということはあまりないだろう。
本質的には「肉体の死を避ける」という自然な活動が即ち生きているということのように思われる。

毎日同じことばかりやらされていて気が滅入っている状況を想像しよう。大変鬱屈していると思われる。いつ頭がおかしくなってしまうかもしれない。これを避けたい防衛反応結果、新しいことをやりたい衝動が湧くのであろう。やることは同じでも過程を自分で制御できるなら鬱屈した気持ちは薄らぐであろう。
「楽器を弾いていると楽しくて、生き生きとしてくる」という正の動機付けがあるとしても、楽器を弾くことができなくなったという理由で精神が崩壊するということはあまりないだろう。
本質的には「精神の死を避ける」という自然な活動が即ち精神が生きているということのように思われる。

「これをするのが好き」「これが趣味だ」という表現があるが、これは何かを競い定量的な尺度で自分の変化を感じる、或いは、定量的に測れるものではなくても技術的或いはもっと感覚的に変化を感じることがうまくできる、自分の特性にうまく馴染んでいる物事なのではないだろうか?自分にとって変化量が十分であれば良いので、絶対的である必要はなく相対的であれば良い。要するに“下手の横好き”で問題ない。客観的には得意であり、側から見ていても十分に成長し変化していると見える場合でも当の本人が変化量が十分と感じないなら、それは精神の死に近くので不満であろう。

「何故山にのぼるのか?」と考える場合、そこに客観的な、或いは主観的な意味などなくても良いのだろう。充実感があるとか、登頂することで爽快であるとか、空気が美味しいとか、そういう正の動機付けがなくてもそれが即座に登らない理由にはならないであろう。たまたま健脚に生まれた、だとか、なんとなく子供の頃にのぼった山の感触が性に合ったとか、それはなんでも良いのであろうが、登ることで、前回の自分からは変化した、向上したと感じられるなら、仮にそれ以外に何もないのだとしても、それだけでのぼる意味が生まれるのだろう。
時には「精神の死を避ける」ことが「肉体の死を近づける」ことになろうとも・・・それは最早個人がどちらに重きを置いているかの問題であろう。