らんだむな記憶

blogというものを体験してみようか!的なー

記号論理学(6)

いまこれ以上、記号論理学を深追いしようとは思わないが、戸田山本の「10.2 シンタクスとセマンティクス」で触れられている議論は興味深い。

\begin{equation}
A_1,A_2,\cdots,A_n \vDash C
\end{equation}

は結論は前提からの論理的帰結であることを意味する。意味論(セマンティクス)的表現である。
一方、
\begin{equation}
A_1,A_2,\cdots,A_n \vdash C
\end{equation}

は、公理や規則をもとに式変形を繰り返すことで前提から演繹で結論が導出されることを意味する。構文論(シンタクス)的表現である。

ここで、公理系をうまく作ってその中で議論をしている形であれば、

完全性定理

\begin{equation}
A_1,A_2,\cdots,A_n \vDash C \iff A_1,A_2,\cdots,A_n \vdash C
\end{equation}

が成立する。
というのだ。
なんとなく、2つのアプローチが一致していると嬉しい気がするし、何よりも横線を1本で書いても2本で書いてもしょうしょうごっちゃにしても間違いでなくなるのが嬉しい!!ふわふわした落書きがしやすい。

―――――・・・

「演繹」という単語の意味がしっくりこなくていつも分からなくなるのは、きっと数学的帰納法 - Wikipediaこいつのせいだ。まったくもって意味もへったくれもなしに式変形で絶対的な結論を演繹的に得ているのに帰納法などとぬかしおる。そして恐らくは生涯で初めて遭遇する「帰納」とか「演繹」といった単語はまずは「数学的帰納法」に含まれる「帰納」であろう。最悪だ。一歩目から混乱をもたらすというのだ。見た目で命名されたとかふざけんなバカヤローというものである。
帰納 - Wikipediaによるなら、帰納とは3人くらいが同じような主張をしているのを聞いて「一般に○○だね。こんなの常識さ」とドヤ顔するような感じである。まったくもって迷惑な話である。
高校数学の範囲で数学的帰納法を適用するシーンでは、確かに帰納的にアタリをつけて仮説を立てて、それを演繹的にごく初等的な式変形で必然的な一般化を行うことになるが、実作業は演繹で行っているので、数学的演繹法にでも改めて欲しい。大体論理学では証明周りの操作を演繹(deduction)と言っているではないか。なのに(高校)数学で証明周りの操作を帰納(induction)と呼ぶのはいかがなものか。

数学的帰納法... をネタにした論理学の本としては数学と新しい論理―数学的帰納法をめぐって | 本橋 信義 | 本 | Amazon.co.jpがなかなか面白いが、命題とか条件とかを区別してちまちま読まないとならないので少々シンドイ。正直「そこまで拘らなくてもいーじゃん(ぶーぶー)」という気持ちになってしまうところはある。まぁしかし、高校で方法論として教わって以来あまり疑問にも思うことなく乱用するであろう利器であるので、一度は立ち止まって「本当にこの論法そのものが正しいのか?数学的帰納法による議論は妥当なものなのか?」ということについて考えてみるのは悪くないと思う。この本を読んでなるほどと納得できるかは別として。正直かなりムズカシイし、著者のライフワークに絡んでいるので「新しい論理学」なるものの一部として、時系列に

の順番で読むのが良いだろう。最初のほうがまだ分かりやすい。3部作(!?)なので途中から読むとゲッソリする羽目になる。と思う。
著者の最新の本

は立ち読みしかしていないが、前述の3冊よりは大幅に優しい気がする。たぶん「新しい論理学」に固執していない... と思ったけど序文に何か書いているからやはり「新しい論理」系の本かもしれない。「なぜわかりにくいのか」は深く考えなくても含意の真理値の ``非日常性'' を見たら一目瞭然だと思う。あれは... 閉じた世界だ。現実によく似た仮想現実、流行りの用語で書けば VR なのだと思うことにして、一旦日常的なアレやナニを忘れて素朴に定義をそのまま受け入れて再構築するのが良いだろう。AR (拡張現実) のように現実世界の上にうまく被さるかは分からない。ということで、ロジカルシンキングと併せて論理学の本を読むかー!!とか不幸の始まりだろう。
論理的に考えるノウハウを得る目的では論理学の本があまり役に立たないのは残念なことだ。