らんだむな記憶

blogというものを体験してみようか!的なー

記号論理学(4)

さて、「矛盾からは何でも出てくる」(Ex falso quodlibet) について見てみる。戸田山本のまんまパクリになってしまい心苦しいが分かりやすいのでちょっと(以上に)引用する。

$P \to Q$ および $\lnot Q$ および $P$ という前提から $R$ を導く論証が妥当であることを見たい。
ここで $A_1, A_2, \cdots, A_m $ から $C$ を導く論証が妥当である、或は $A_1, A_2, \cdots, A_m $ から $C$ が論理的帰結として得られることを $A_1, A_2, \cdots, A_m \vDash C$ と書き、「$A_1, A_2, \cdots, A_m \vDash C \iff A_1, A_2, \cdots, A_m, C$ を構成している原子式への真理値割り当てのうち、 $A_1, A_2, \cdots, A_m $ を同時に1とし、かつ $C$ を0とするような真理値割り当ては存在しない」と定義する。

さて、$P \to Q$ および $\lnot Q$ および $P$ は見事に矛盾している。$(P \to Q) \land \lnot Q \land P$ なる論理式の真理値は常に0だ。これを含め、 $R$ も交えて見てみよう。

$P$ $Q$ $P \to Q$ $\lnot Q$ $R$
T T T F T
T T T F F
T F F T T
T F F T F
F T T F T
F T T F F
T T T F T
T T T F F

ということで、前提 $P \to Q$ および $\lnot Q$ および $P$ は(矛盾しているので)同時にTにならず、結果、前提をすべて真とし結論を偽とする真理値割り当てが存在しない。よって、定義より $P \to Q$ および $\lnot Q$ および $P$ から結論 $R$ を導く論証は妥当である。となってしまう。

こういうのはまずい。論理学を下敷きに数学をするならば、数学的に何か考える時に公理系が矛盾していればどういう定理を導いたとして論証が妥当になってしまうのだから、公理系の無矛盾性が非常に重要になってくる。

竹内本(「現代集合論入門」)でも面白い例がある。ほとんど屁理屈に聞こえる部分はあるが。

1=2 を仮定して、あなたが法王であることを証明してくれ。

法王と私とは2人の人間である。ところで、 1=2 を仮定すれば、これは1人の人間である。ゆえに私は法王である。

なんということでしょう...。

一方、彌永・赤本の「あとがき」にあるように

じつは、「証明論」には「ゲーデルの定理」という巨大な障壁があって、対象となる理論の無矛盾性を証明するには、その理論だけに頼っていたのでは駄目だということが分かっているのである。(ふつう、これを「(第2)不完全性定理」といっている。しかし、自分の正当性を証明できないのが常識だろう。― 以下略)

ということで案外難しい状態になっている。公理系の無矛盾性が示されている事例は僅からしいので、実のところ厳密には数学の各論証が妥当かどうか何とも言えない部分があるということだろう。ゲーデル不完全性定理については難しそうだから一切読んでいない!

ここいらで方法叙説;省察 (イデー選書) | R. デカルト, 三宅 徳嘉, 所 雄章, 小池 健男 | 本 | Amazon.co.jpから引用したい内容があったが、どのページか思いだせない*1なお、考えがあって同書のタイトルは通常の「方法序説」ではなく「方法叙説」というタイトルになっている。

*1:今さらに「Cogito ergo sum」を引用したいわけではない。それは第四部内にさらりと登場する。しかも、デカルトはこう書いたわけではなく、デカルトの校閲でも Ego cogito, ergo sum, sive existo で、本人の別の書での表現も ego cogito, ergo sum らしい我思う、ゆえに我あり - Wikipediaラテン語では動詞の活用から主格が定まるので主格たる ego は落とせるようだ。エゴイズムというやつとして実は日常的に聞いている単語ではある。もっと数学チックな本としてはスピノザの「デカルトの哲学原理」があるがどうもしんどくて今日まで読み切るに至っていない。ラテン語はなじみが薄いが Lacryma Christi というものをひょっとしたらたまに聞くかもしれない。イタリアワインかヴィジュアル系バンドを想起するかもしれない。キリストの涙という意味のラテン語のようだが。