らんだむな記憶

blogというものを体験してみようか!的なー

勉強

カテゴリ poem を追加してみた。全てポエムだけど。

べんきょぇ - らんだむな記憶 シリーズ。いまやっとこれはポエムだったのだと気づいた。

量子情報とか本を読んで役に立つんだろうか?X ゲートをいつ使うのか?と思ってしまった。

2012 年くらいに思いを馳せると AlexNet が ImageNet の分類で驚異的な進歩をもたらしたという情報だけで「さぁ、Caffe や Theano で今日からディープラーニングだ!」となっただろうか?或は、2014 年くらいに GAN が出てきて、それっぽい画像が生成できるようになったからといって「よし、これから時代は AI によるデータ生成だ!」となっただろうか?まだこの時点では TensorFlow も PyTorch もなかった。Chainer さえ出てきていない。「よし、ならば Darknet を開発するぞ!」となれるだろうか?と考えると、実際にその後数年で一気に躍進したものの、いつ芽が出るか、一般大衆が学ぶメリットなんかあるんだろうか?という代物に対して茨の道を進むのは本当に大変だと思う。量子情報や QCL も本当に後数年で普通のプログラマが触って何かできるレベルのレベル感に落ちてくるのか?とかキラーアプリが出てくるのか?とか未知でしかない。

明らかに目の前の必要性に対して行う勉強(例えば、良い大学に行きたいとか資格をとりたいので、そこに合格できる要件を満たすための勉強)は例えそれが無意味に感じていようとも目を瞑って勉強することも可能だとは思う。一方、前述の例のように将来に必要になるかもしれないしそうでもないかもしれないことに対する投資としての勉強は難しい。投資なので外れて時間と金が溶けるだけかもしれない。小学生の頃だと自分で着目した銘柄に投資するのではなく、無理矢理押し付けられた銘柄に投資させられて、理由を問うても「つべこべ言うな」なのでこれはつらい。

と考えると、勉強は例えば

1. 目の前のハードルを飛び越えるためのもの
2. 投資としてのもの(能動的・受動的)

に分けられそうだ。これを何か別のものに例えてみよう。例えば、衣服に例えてみよう*1

いまは冬なので寒い。寒いので長袖やコートが欲しい。こういったことは、1. の勉強と比較できると思う。目の前の課題・問題である「寒い」をクリアするためだ。では、2. に対応するのは何かと考えると「普段は黒い服ばかり買っているが、赤い服を買う」ということだろう。小学生の場合で言うと「親が変な赤い服を買ってきてしまった」といったところか。さて、この赤い服を着るかどうかは分からない。着たら案外似合って、今後のスタンダードになるかもしれない。或は 2 年後くらいに捨てようかと思ったけど、せっかくなので(これまた普段は買わなかった)グレーのズボンを買って合わせて来てみたら案外いけた、なんてことがあるかもしれない。単品では絶対に買わなかった、見てもスルーしたグレーのズボンを見事にモノにしたということだ。

と考えると「こんなことを勉強して何の役に立つのか?」と感じるような 2. の勉強は「これ着るのか・・・?」という服を買うのに似ているかもしれない。着ないかもしれないし、持っていることでこれまた「これは履かないでしょ・・・」というズボンを買って合わせるキッカケになってさらに発展するかもしれない。分からないとしか言いようがない。まぁ、でも一着くらい着そうにもないものを持っておくといつか役に立つかもしれない。普段着るものばかり買ってたり、冬だからとりあえず冬物を買うだけの 1. の勉強だけだと殻に閉じこもってしまって新しい可能性も見出せないだろうから。

ということで、もともとの疑問に戻ると「量子情報を勉強して何か役に立つのか?」という疑問に対して自問自答として「分からない」という結論を得た。

*1:という例えを思いついたのでポエムを書いた。