らんだむな記憶

blogというものを体験してみようか!的なー

働きたくない

やりたいことを仕事にできるのは一部だという。
しかしよく考えると、仕事というものが金銭(対価)を得ることだとすると、それは何故対価になり得るのか?という疑問が生まれる。相手が対価を払うとうことは、何か価値を見出したからであろう。すると、仕事とは相手にとっての価値を生み出す活動のことではないだろうか?
一方、やりたいことというのは自分にとっての価値を生み出す活動ではないだろうか?
すると、自分がやりたいことは自分にとっての価値の生産であり、仕事というのは相手にとっての価値の生産であり、これは一般に一致しない。

“やりたいことを仕事にできる”というのは、その前提に「ある事柄が自分にとっての価値であると同時に相手にとっての価値でもある」というものがありそうだ。その上でその事柄を仕事にできるのは一部だということではなかろうか?
いや、これは本当に極々僅かのような気がする。まずその前提が成立するのがとても稀と思う。
例えば、絵を描くにしても、気ままに描きたいということはあっても、あまり公募に入選する(=ある意味で審査員の好みの作品を制作する)ための作品作りをしたいというわけでもないのではないだろうか?気ままに描いたら、何か好き好んで金を出して買ってくれるといいなぁというのはあるとしても。
というわけで、絵を描くことが好きだとして、絵を描く仕事をできると嬉しいのかと言うと何とも言えない気がする。
好きなことをした結果、何故かそれを有難がって買って行ってくれるのが一番良いな。絵を描いたら誰かが売ってきてくれるといいと思うし、数式を書いたら誰かが売ってきてくれるといいような気がする。「まぁ、やってもいいかな?」と思うことはあってもそれを売ってきてくれる誰かがおらんし、そもそも売れるモノである気がしない・・・。

ということで「活動→対価の構図を望ましく成立させる{活動,成果物,売人,購買者}の組み合わせがない」ので働きたくない。