らんだむな記憶

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大数の法則と中心極限定理

ぼんやり統計学の勉強もどきをすると間違いなく大数の法則中心極限定理に遭遇する。
確率論 - らんだむな記憶大数の法則についてメモをしたのを思い出した。
統計学の教科書的な記法を用いると、標本平均$\overline{X} := \frac{S_n}{n} = \frac{1}{n} \sum_{j=1}^n X_j$について、$n$が十分に大きければ、$P(|\overline{X} - \mu| > \varepsilon) \approx 0$という内容だった。ここで各$X_j$は独立同分布で$\mu = E[X_1]$としている。
粗い書き方をすると$\overline{X} \approx \mu$ということだ。

よくよく考えると、サイコロの例の場合、実験から求めた相対頻度で各目は$\frac{1}{6}$で出ますよということにしているはずなので、大数の法則は母数が大きい時の相対頻度が理想の相対頻度$\frac{1}{6}$に近づきますよと言っているような感じで、それを期待して確率値を定めたんだから、そりゃそうだろ!というトートロジー感を感じないでもない。というより感じる。
が、まぁ、実際にはどういう決め方で確率値というものを定めたとしても、それが確率値として妥当なもの(即ち確率の公理を満たす)であるのならば、かような性質を持つというのが定理の主張なので、サイコロの直観的な確率値だけを見てぎゃーぎゃー言っても仕方がない。
なんのこっちゃと道に迷った時には、小針先生のAmazon.co.jp: 確率・統計入門: 小針 アキ宏: 本のpp.1-9の内容が秀逸だ。
あまりに秀逸すぎるが全部引用してメモるわけにもいかないので、手短なとこだけ引用してみよう。

先験的な確率というものがどこかにあって、それを探究するのが確率論 ―― ではなく、何をもって同等に確からしいとするか、はcase by caseに、事実に即して選択決定すべきものなのだ。(中略)金貨を投げる時、表の出る確率は1/2と仮定すればたいていの実験とよく合って、好都合なのだ。

おかたい本ではしゅっと公理論的な話にうつるし、入門書ではサイコロの1の目は1/6の確率で出ることは体験を通じて皆さんよくご存じだと思いますと流してしまうので、小針先生の本のようなことを意識して入り口に立つことは案外少ないのではないかなぁと思う。
このアタリマエの感覚で定められた確率値のもとでは、サイコロにおける大数の法則はひどくアタリマエのように見えてしまうのだと思う。