らんだむな記憶

blogというものを体験してみようか!的なー

もっと確率論

そんな地獄に気付いた時から、不安な気持ちがつきまとうようになった。
「これどういう意味?」「無限次元の測度!?」「でも、サイコロのナニを説明するような簡単な定理のはずだよね?」「てか、超基本じゃないか」「この後には中心極限定理とかあるんだろ?」「なんかもう何も分からなくなってきた...」

結構いろんな本を見て最後に確率論入門 (ちくま学芸文庫) | 赤 攝也 | 本 | Amazon.co.jpから大きなヒントを得た。数学基礎論の先生というイメージだったので、畑違いな気がして手に取るのは随分後になった。
Amazon.co.jp: 公理と証明 証明論への招待 (ちくま学芸文庫): 彌永 昌吉, 赤 攝也: 本を先に読み切っていたので、すっかりそういうイメージを持ってしまったのだ。ちなみにこの本も結構興味深い。(まぁ、しかし世の中を平和に明るく楽しく生きたいなら数学基礎論とかに手は出さなくても良いかもしれない。物理学≒形而下学と考えるなら、物理学 : 形而上学(metaphysics) ≒ 数学 : 数学基礎論(metamathematics)と考えられるかもしれなくて(こんな乱暴な対比は許されるのであろうか?)、そう考えると、どれくらいおらワクワクしてきたぞ!状態になって夜も眠れなくなるかお察しくださいだからだ)

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ともかくも、$\Omega$さんを考える前に、$\Omega_0 = \{1,2,3,4,5,6\}$さんという空間を考えましょうと。$\Omega_0$さんの上の確率測度$P_0$を考えましょう。で、$\Omega_0$さんの複製を$n$個用意して、$n$回ピッタリの試行の確率空間$\Omega_0^n = \underbrace{\Omega_0 \times\cdots\times \Omega_0}_n$を考えましょうと。
んで、この$\Omega_0^n$さん上の直積確率測度$P_0^n = \underbrace{P_0 \times \cdots \times P_0}_n$を考えて、$P_0^n \left(\left| \frac{S_n}{n} - E[X_1] \right| > \varepsilon\right)$の極限を考えましょうと。これはかなりいけそう!(赤先生の本は入門書なので、これ以上無限次元確率空間とかには触れていなかったはず)

しかしこれだと、$n$を動かすたびに確率空間そのものが丸ごと変動してしまうし、流石に大数の弱法則その2もそこまで遠回しなことを言っている気がしないしなぁ...。なんか有限試行と無限試行を関連付けないと...。
そこで救世主登場!「Kolmogorovの拡張定理」

Kolmogorovの拡張定理

$\Omega_0$を有限集合とする。この時、$\Omega_0$は任意の距離函数に対し距離空間となり完備かつ可分となる。
$\Omega_0^n$上のBorel集合族を$\mathscr{B}(\Omega_0^n)$とする。可測空間$(\Omega_0^n,\mathscr{B}(\Omega_0^n))$上の確率測度$P_0^n$が以下を満たすとする:
\begin{equation}
P_0^n (A) = P_0^{n + k}(A \times S^k),\ A \in \mathscr{B}(\Omega_0^n),\ k = 0, 1, 2, \cdots
\end{equation}

この時、$\Omega^\infty = \Omega_0 \times \Omega_0 \times \cdots$上に以下の条件を満たす確率測度$P^\infty$が一意に存在する。
\begin{equation}
P^\infty (A \times \Omega_0 \times \Omega_0 \times \cdots) = P_0^n (A),\ A \in \mathscr{B}(\Omega_0^n)\ {}_\square
\end{equation}

これで有限試行と無限試行との間に架け橋がかかった!

要するに、大数の弱法則その1は確率空間$(\Omega_0^n,\mathscr{B}(\Omega_0^n),P_0^n)$に対する主張で、その2は$(\Omega^\infty,\mathscr{B}(\Omega^\infty),P^\infty)$に対する主張であって、その間をKolmogorovの拡張定理が繋ぐことで、その2からその1の主張が導かれるということだ。確かに、その2はその1の拡張なのである。

実のところ、まだすっきりしていないところが残っていて、それはさっさと片付けないとならないのだが、なかなか手つかずで整理しきれていない。が、概ねはこの筋書きで良かろうといまの段階では考えている。

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確率論は解析学の一分野となっている。しかしそれは、近代確率論が解析学の測度論の言葉で再構成することで飛躍的に発展したからであって、確率論は確率論である。実際、Laplaceの時代のAmazon.co.jp: 確率の哲学的試論 (岩波文庫): ラプラス, 内井 惣七: 本などは別に解析学というわけではない。物理の人が数式で何かを記述したところで、数式を使うのだから彼らは数学者だ、という結論が出るわけでもないのと同様、確率論が解析学の言葉を使うからといって、本質が解析学だというわけではないのだと思う。物理の人は彼らの目的のために数学を道具として使うだけであって、求めているのは物の理であるのと同様、確率論は解析学を道具として使って確率事象の本質を追い求めているのだろう。

解析学としてだけ見るなら、大数の弱法則その2ですべて完結しており、それ以上言うこともないと思うが、確率論として見るなら、やはり有限の手続きと関連付けたい。神様じゃないんだから、無限にサイコロを振るなんてできないからね。だとするとなんとかして大数の弱法則その1と繋げたいってものじゃないか。でも、一方で数学として発展させるためにはやはり、その2のような抽象形態である必要がある。そんな贅沢な悩みを解決する定理が出てくる...。なんとも不思議なことだが、全部綺麗に丸くおさまってくれる。

伊藤先生の言葉に戻ると「しかし確率論を真に楽しむためには、確率現象に対する直観的理解を背景として確率論の発展方向を見きわめなければならない」である。目指す先を見誤ると、それは確率論ではなくなってしまいそうだね。
こうして、自分の中で確率論は自立し、解析学から巣立って羽ばたいた。

…そんな夢幻の彼方の世界から意識を引き戻して現実に戻ると、パチスロのような実学としての確率論を実践する方々にとってはこんなことはすべて当たり前のことなのだろうかという思いに駆られる。雑踏の中からふと空の彼方に目を遣ると、仕事を終えて幾分疲れた表情を浮かべる母君は山の端へと腰をおろし、そして静かに夜の帳が下りてくるところであった。