らんだむな記憶

blogというものを体験してみようか!的なー

木こりのジレンマ

なかなかよくできた話だと思って原典を引用しようと思うと、これが見つからない。
イソップ寓話の話だと書いてあるものが多いが、イソップ寓話で検索すると簡単には見つからない。英語での題名も見つからない。ただその話の粗筋とイソップっぽいという話だけ流れている?ひょっとしたらサイバーエージェントの社食のフェイクニュースみたいに「ありそうな話」がぷわ〜って拡散しているだけだったり・・・。*1

さもありそうな話であったとして、その全体の真意や存在性が明らかにならぬままに拡散され盲信されるのは怖い話である。
仮に“木こりのジレンマ”として引用されているところの内容が存在するとして、斧を研ぐように仕向けるのは案外難しい。一朝一夕でそうなっていないこともあるだろうし、面倒臭い“長老”が「代々こうするような習わしなんじゃー」とか言ってる場合に年功序列の日本ではなかなか厳しい。

よほど自分が低レベルなのか低レベルな環境や事案しか見たことがないが、どうしたことか、ヒトといいうものは18歳くらいをピークに思考力が低下の一途を辿り、40歳くらいで幼稚園児並みの判断力にまで低下するのかな?と思うようなことが少なくなかった。なんか抽象的な論理的思考による帰納や演繹などどこふく風で、見たものから受ける印象だけで雰囲気駆動で判断していくようになるような感じがした。きっと優秀な界隈ではこんなことはないのだろうがね。

斧を研ぐように仕向けるのは案外難しいが、自己犠牲を払う気があるなら、上記のような程度の低さがあればこれを利用できなくもない。自分が自腹で斧を研いで錆びた斧で木を切る連中の隣でもっと高速に木を切って見せれば良いのだ。とすると雰囲気的に“楽そう” “速そう” “安そう”という都合の良さそうな側面だけ見えるので、物事の本質などそっちのけで連中は「今日からはこの方針でいこう!」と適当に移ってくれる可能性があるのだ。停滞した思考も利用できなくはないということだが、そもそもが雰囲気駆動なので、雰囲気を醸せるまで自己犠牲を払わないとならないのは辛い。本質的には等価でも、これを論理的に説明するだけでは受け入れてもらえない。それが(日本の?)(低レベルな?)現場ってもんだ。
リスクとしては「1人でできそうだから、やっといて」で丸投げされたあげく、今度は連中は錆びたナタに持ち替えて、別の何かを切りに行ってしまうケースだ・・・。錆びた道具しかないことには目もくれない・・・ということもある・・・

*1:これの訂正ツイートもフェイクだったらどうしようと思ったので検索してみると、こっちは藤田社長のアカウント内で見つかる。フェイクニュースが流れて、それを社長が訂正したという一連の流れが本当のとこなのだろう。