らんだむな記憶

blogというものを体験してみようか!的なー

数学的な美

数学的な美 - Wikipediaというのがあるそうな。
必ずと言って良いくらい「マンデルブロ集合」「黄金比」「フィボナッチ数」が出てくるなぁ
昔からエレガントな回答とか数学の美しさとかそういうのはよく分からないな。ようするに向いてないのかもしれない。

超函数入門 | 金子 晃 | 本 | Amazon.co.jpという素晴らしい本があるのだが、Amazonでは手に入れにくくジュンク堂とかでないと手に入らないようだ。超函数入門 新版 オンデマンド版(2012年05月)|金子 晃 |東京大学出版会 |商品詳細ページ |丸善&ジュンク堂ネットストアで購入可能。
先生のページ(超函数入門のページ)によると、ペーパーバック版の初刷で落丁があって回収騒ぎになってしまったらしい。【交換】丸善・ジュンク堂 「超函数入門」に落丁箇所あり(ID:19503)_ | リコールプラスだな。p.381らしい。手元のはこのページは問題ないな。
この本はいわゆる佐藤超函数(hyperfunction)の本だが、p.2に面白いことが書いてある。これまたいわゆる超函数(distribution)で有名なかのLaurent Schwartzの主張として

工学者が長年使っていてボロの出ない算法というものは必ず数学的に正当化できるはずでる。

と著書で述べているらしい。どの本かは分からないが。
こういうのと似たようなもので、超函数電磁気学などで成功をおさめたように、J. von Neumann(だけではないにしても)が数学的に基礎づけした量子力学においても数学は非常な成功をおさめていると思う。数式として正しいだけでなく、工学/物理学的に正しいとされることを説明できてしまうのだ。何故かは分からないが、何かの真理のように感じる。この絶妙な関係性にはただならぬものを感じる。数学の美しさは分からないが、数学の力には畏敬の念を感じるし、こういったところが好きだと言えよう。
かくして、幾何学代数学における美学を感じる能力を持たないので、解析学において力押しででも導いた式が物理的な何らかの意味づけができた時に何か神秘性を感じるようになったというか、解析学しか理解できない。

美はどうも視覚情報からしか得られないなぁ。MAXIMES, CITATIONS et PROVERBES : amour et sexeによると、Pierre-Augustê Renoirの言葉として

Un sein, c'est rond, c'est chaud. Si Dieu n'avait créé la gorge de la femme,
je ne sais si j'aurais été peintre.

というのがある。Google翻訳で一旦英語にしてから日本語にすると以下のような感じかな?

胸のあの丸さ、熱さよ。神が女性の喉元をお創りにならなかったとしたら、果たして私は画家になったであろうか。

というとこか?「女性のお尻と胸がなかったら、私は画家にならなかっただろう。」という感じの表現が多いみたいだけど、gorgeって昔は尻だったの??
Amazon.co.jp: 恋する石膏像―つめたい石膏像とあつく語ろう (ハートアートシリーズ): 早坂 優子: 本という面白い本があって、確かこの本でその言葉について知った。(この本は簡易的な美術史の本とも見ることができそうだ)
はっきり言ってセクハラのように感じる勢いだが、言うだけあってルノワールの絵は非常に情熱的でエロスを感じる。そして、いまいち気が入ってなさそうに感じる絵があったりムラっ気があって面白い。
Gustav Klimtもなかなかのエロスの達人でかなりやばいものもあるとか。
ともかく、どうも美学は視覚からしか感じられない。残念だ。
版画で知られるAlbrecht Dürerの研究紹介のような精密な透視図法による絵はかなり数学との接点があるだろう。透視図法の説明のために(現在ではなんだかよく分からん複雑なものになっているが)射影幾何学は生まれたらしいし、こういうところにちょっとした直接的な絵画と数学の関わりが見られたりする。どうも射影幾何学は$\mathbb{R}P^2$とか射影平面でお腹いっぱいになってしまって、美術とのつながりを知るに至ったのは大分後のことで、現役の頃は見るのも嫌な対象だった。残念。

色々かすってはいるのだが、どうやら自分の中では数学と美学は最後まで繋がることはなかった。残念。

―――――・・・

ローラン・シュヴァルツ - Wikipediaの項を見ると、

一切ノートを取らない主義で有名であり学生時代も数学関連の内容など全てを記憶していたが、後に考えを改め晩年はパソコンすら用いていた。また幾何学的直感が皆無で初等幾何学の具体的図形などは全く理解できなかったが、しかし証明や論理構造は完璧に理解できたため、幾何学の授業では困らなかったとも述べている。

などと書いてあるがとんでもないな。数学のコツは対象のヴィジョン(しかもできるだけ絵的なもの、抽象的だとしても)をどれだけ自分の中に持てるかだと思っていたのに、それを超越しとりますな。D. Hilbertの形式主義の中でも突入できそうだ。
幾何学基礎論 (ちくま学芸文庫) | D. ヒルベルト, David Hilbert, 中村 幸四郎 | 本 | Amazon.co.jpなんかも図形がたんまり書かれた、それでいて非常に公理論的な本だが、これも図なしでいけるんかな?凄すぎる。
岩波数学基礎選書における小平先生の序文には

たとえば、公理的構成の見本と規範となったHilbertの幾何学基礎論では、'点'、'直線'、等は意味のない無定義後、すなわち記号であった、'猫'、'雀' 等で置き換えても一向差支えないことになっているが、これは事実に反する。実際、Hadamardが指摘したように、幾何学的基礎論には殆んど毎頁に図が載っている。図を描かず、頭の中で図を想像することもせずに、理論だけによってHilbertの幾何学的基礎論を理解することは不可能であろう。

と形式主義に一言添えてあるのだが、L. Schwartzはそれができたのだろうか?世界は広い。とんでもないギフトの持ち主がいたものだ。

集合論における「集合全体の集合は集合か?」のような数学の危機を乗り越えるために現れた論理主義, 直観主義, 形式主義の1つである形式主義も、Kurt Gödelの不完全性定理によって大分打撃を受けているようで、なかなか一筋縄ではいかないもんだ。
(というか、数学的基礎論周辺、不完全性定理はまったく理解できていないのだが...)

こういうのがまるっと解決したら、そこにはとんでもない美が出現するのかなー